史上最悪のヤクザ抗争「山一抗争」とは?まるで実写版アウトレイジ【動画】

山一抗争は、1984年~1989年に起こったヤクザ組織である「山口組」と「一和会」の間に起こった抗争のことを言います。山一抗争では、暴力団の組員はもちろん、取り締まる側の警官や一般市民にも負傷者がでるなど、史上最悪の暴力団抗争として知られています。

史上最悪のヤクザ抗争「山一抗争」とは?まるで実写版アウトレイジ【動画】のイメージ

目次

  1. 史上最悪のヤクザ抗争「山一抗争」とは?
  2. 映画「アウトレイジ」を凌駕していた「山一抗争」の動画
  3. 最悪のヤクザ抗争「山一抗争」はアウトレイジを凌駕していた
  4. 山一抗争の一方の主役「山口組」とは
  5. 山一抗争の主役「山口組」を急成長させた田岡組長の手腕
  6. 「山口組」3代目組長「田岡一雄」の肩書
  7. 山一抗争の原因となった田岡組長の死
  8. 山一抗争のもう一方の主役「一和会」とは
  9. 最悪のヤクザ抗争「山一抗争」の隠れた主役とは
  10. 山口組最大の功労者「田岡」の死~山一抗争まで
  11. 山一抗争にまで発展する四代目誕生の内幕
  12. 史上最悪のヤクザ抗争「山一抗争」勃発
  13. 史上最悪のヤクザ抗争「山一抗争」の終結
  14. 「山一抗争」と山口組六代目組長「司忍」
  15. 「山一抗争」とダンプ特攻
  16. まとめ

史上最悪のヤクザ抗争「山一抗争」とは?

「山口組」と「一和会」の間に起こった抗争

出典: https://ja.wikipedia.org

史上最悪のヤクザ間の抗争として知られる「山一抗争」とは、1984年(昭和59年)~1989年(平成元年)の期間にかけて発生した暴力団同士による抗争事件です。

「山一抗争」は、ともに兵庫県神戸市に本拠地を置く暴力団である「山口組」と「一和会」の間に起こった抗争のことを言い、両組織を構成する暴力団組員はもちろん、その他にも、取り締まる側の警官や一般市民にも負傷者がでるなどして、史上最悪の暴力団抗争として、一般的にもよく知られた事件です。

「山一抗争」と「山口組分裂」の関係性

出典: http://goodcopy.iwankofu.com

山本広

「山一抗争」の一方の主役「山口組」は、最近になって分裂騒動をおこしていることは、テレビや新聞のニュースやマスコミでも取り上げられていて有名です。

はじめは2つに分裂した「山口組」は、その後「六代目山口組(組長 司忍)」と「神戸山口組(組長 井上邦雄)」、「任侠山口組(組長 なし)」の3団体に分裂してしまいました。(この後「山口組」がどうなるのか?気になります。)

じつは、かって世間を騒がせた「山一抗争」も、発端は組の分裂騒動が絡んでいたためか、今回の「山口組」の分裂騒動とかっての「山一抗争」は、よく引き合いに出されて語られるようです。

出典: http://yakuza893.blog.jp

出典: https://twitter.com

映画「アウトレイジ」を凌駕していた「山一抗争」の動画

「山一抗争」の緊迫した様子を伝える動画

「山口組」対「一和会」史上最大の抗争の様子を伝える動画です。

山一抗争での一和会の山本広組長の記者会見動画。

山一抗争当時の「山口組」特集動画

山一抗争~山口組分裂までの解説動画

最悪のヤクザ抗争「山一抗争」はアウトレイジを凌駕していた

「山一抗争」と映画「アウトレイジ」の関係

出典: http://goodcopy.iwankofu.com

竹中正久と山本広

映画「アウトレイジ」(Outrage) は、北野武監督の人気ヤクザ映画で、シリーズ化され3作品が公開されました。

この「アウトレイジ」(Outrage) シリーズは、過激な暴力シーンが描かれており3作品とも映倫でR15+指定を受ける程の内容でした。

映画の「アウトレイジ」と「山一抗争」には、とくにストーリー上での関係は語られていませんが、初回「アウトレイジ」のキャッチコピーが、「山一抗争」の内容を彷彿とさせるもので、ここから何かしらヒントを得たのでは?と考えてしまうほどです。

問題のキャッチコピーは、次のようなものでした。

「全員悪人」、「下剋上、生き残りゲーム」

まさに史上最悪のヤクザ抗争「山一抗争」の内容を端的に伝える内容と言えます。

アウトレイジ予告編動画

1作目「アウトレイジ」予告編動画です。

「アウトレイジ ビヨンド」予告編動画

2作目「アウトレイジ ビヨンド」予告編動画です。

「アウトレイジ 最終章」予告編動画

3作目「アウトレイジ 最終章」予告編動画です。

山一抗争の一方の主役「山口組」とは

日本を代表するヤクザ組織「山口組」の黎明期

出典: https://www.kobe-np.co.jp

「山一抗争」について説明するためには、「山一抗争」の一方の主役である「山口組」について、理解を深めて貰う必要があります。

「山口組」と聞くと、田岡組長という名前を思い出す人も多いかも知れません。中には、「山口組」は田岡組長が作ったヤクザ団体と思っている人もいるかも知れませんが、実際は、田岡組長は「山口組」の3代目組長になります。

「山口組」を作ったのは、山口春吉という人物で、ちなみに、山口春吉はヤクザになる前は淡路島で漁師をしていたそうです。

そんな山口春吉が、港湾労働者の「沖仲仕(おきなかし)」を集めてできたのが「山口組」で、発足当初は構成員が僅か約50名の規模の団体でした。

発足当初は、「大嶋組」の傘下組織としてスタートした「山口組」ですが、勢力を拡大した「山口組」は2代目の山口登が組長の時代に「大嶋組」から独立を果たします。

そして、山口登の死後、組長の座についたのが3代目組長の「田岡一雄」です。

出典: https://ameblo.jp

出典: https://ameblo.jp

日本を代表するヤクザ組織「山口組」急成長の時代

田岡組長が3代目組長の座に就いた頃の「山口組」の規模は、組員が僅か三十数名ほどの組織に過ぎませんでした。

しかし、その後の約20年間で、「山口組」は傘下の組数:424団体、構成員数:9450人という巨大組織にまで急成長を果たします。

「田岡一雄」は、まさに「山口組」中興の祖とも言える人物で、「山口組」発展の功労者といえる存在でした。

山一抗争の主役「山口組」を急成長させた田岡組長の手腕

「山口組」発展の功労者「田岡一雄」

出典: https://twitter.com

田岡組長が3代目組長の座に就いた頃の「山口組」は、組員が僅か三十数名ほどの規模でした。

そんな「山口組」が、その後の約20年間で、傘下組織:424団体、構成員数:9450人という巨大組織にまで急成長を果たします。

一体、田岡組長はどんな手法を使ったのか?気になったので調べました。

「田岡一雄」が組長に就任する以前のヤクザ組織の主な収入源は、「テラ銭」(博打のショバ代)でした。

しかし、日本の高度成長期とともに時代が変化して、ギャンブルの世界でも非合法なものから、競馬や競艇などの公営ギャンブルに人気が移行していき、「テラ銭」頼みの従来のヤクザ組織は、ジリ貧状態に追い込まれていました。

そんな時代に3代目組長を襲名した田岡組長は、新たな「しのぎ」を開拓し、「港湾荷役」と「芸能興行」を二大収入源とすることに成功します。

その後、田岡組長は「山口組」傘下の組員に、合法的な資金源を持つよう指示し、合法事業という安定した資金源と、非合法事業を併せ持つ、それまでにないヤクザ組織を作り上げ、「山口組」を全国規模のヤクザ組織に育てていくことに成功します。

まさに、「山口組」発展の功労者が「田岡一雄」という人物でした。

「山口組」3代目組長「田岡一雄」の肩書

「山口組」の功労者、田岡組長の横顔

出典: http://blog.livedoor.jp

ちなみに、田岡組長の肩書は、「山口組三代目組長」の他にも、次のようなものがありました。

・甲陽運輸社長

・芸能事務所「神戸芸能社社長」

・日本プロレス協会副会長

また、芸能事務所「神戸芸能社」は、美空ひばりや田端義夫、高田浩吉、三波春夫、里見浩太朗、 山城新伍、橋幸夫など、日本のトップスターの興行権を持っていたことでも知られています。

ちなみに、戦後の混乱期の日本では、プロ野球の試合さえも地元の興行組織の協力なしでは開催できなかったところ、野球ファンだった「田岡一雄」の指示で、悪しき慣習がなくなり自由に試合を開催できるようになったとのことです。

(全国規模にまで成長した「山口組」の影響力の凄さを垣間見れるエピソードだと思います。)

出典: http://blog.livedoor.jp

山一抗争の原因となった田岡組長の死

四代目組長を巡る内紛が山一抗争へ

出典: http://blog.livedoor.jp

そんな「山口組」発展の功労者で、中興の祖とも言える人物だった3代目組長「田岡一雄」は、1981年(昭和56年)7月に、急性心不全で亡くなります。

この時点で、田岡組長の後継者は、「山口組」の若頭であった「山本健一」に決まっていましたが、田岡組長の死から間もなく、4代目「山口組」組長を襲名するハズだった「山本健一」も持病の肝臓疾患が悪化して亡くなってしまいます。

※「山本健一」は、昭和57年(1982年)2月に死亡しました。

(ちなみに、4代目「山口組」組長を襲名するハズだった「山本健一」は、田岡組長の信任も厚く、数々の抗争や山健組の地位を不動のものにする等の功労者的存在でした。)

1年足らずの短い期間に、「山口組」の最大の功労者である田岡組長とその後継者と決まっていた山本健一が亡くなったことが、当時の「山口組」の内部に混乱を招き、四代目跡目を巡って争いが起こることになります。

この「山口組」の四代目跡目を巡る争いが、史上最悪のヤクザ抗争として知られる「山一抗争」です。

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山一抗争のもう一方の主役「一和会」とは

山一抗争当初、山口組より優勢だった一和会

※「一和会」は「いちわかい」と読みますが、発足当初は「かずわかい」でした。その後、メディアが「いちわかい」と誤って報道し続けたため、そのまま「いちわかい」と呼ぶようになりました。

「山一抗争」について説明するためには、「山一抗争」のもう一方の主役である「一和会」についても、理解して貰う必要があります。

「一和会」が結成されたのは、昭和59年の6月です。3代目田岡組長が亡くなった後、「山口組」の4代目には山口組若頭だった「竹中正久」が就任しましたが、山口組の組長代行に就任していた「山本広」を推していたグループが、これに反発し山口組を脱退し作ったのが「一和会」です。

ちなみに、「一和会」の発足当初は、「一和会」が約6000人の規模だったのに対し、「山口組」が約4000人と、「一和会」の方が数的には優勢でした。

最悪のヤクザ抗争「山一抗争」の隠れた主役とは

出典: https://ameblo.jp

「山一抗争」に影響力を及ぼした田岡文子

出典: https://ameblo.jp

「山口組」発展の最大の功労者で、中興の祖とも言える存在だった3代目組長「田岡一雄」が、1981年(昭和56年)7月に亡くなり、4代目「山口組」組長を襲名するハズだった若頭であった「山本健一」も1982年(昭和57年)2月に死亡してしまった後、「山口組」内部では混乱が始まりますが、すぐに「山一抗争」へ発展したわけではありません。

そこには、「山一抗争」の隠れた主役ともいえる、亡くなった田岡組長の妻「田岡文子」の存在がありました。

はじめに存在感を示したのが、1982年(昭和57年)9月のことで、「山口組」組長代行に就任していた「山本広」が四代目組長に立候補し組内部に混乱が生じた際、「田岡文子」の説得で「山本広」が四代目の襲名を延期する出来事がありました。

じつはこの時点で、周囲から「山口組」の四代目と目されていた人物がもう一人存在しました。それが、「山口組」の若頭に就任していた「竹中正久」です。

「山本広」が四代目組長に立候補したのは、この「竹中正久」が逮捕拘留中で不在の時期で、(山本の)相手のスキを突いたゲリラ的な行動がかえって組員の反発を招いた感も否めません。

この混乱を見事に収めたのが、亡くなった田岡組長の妻「田岡文子」だったんです。

山口組最大の功労者「田岡」の死~山一抗争まで

山口組4代目に竹中組長が就任するまでの経緯

「山口組」が発展した最大の功労者である「田岡組長」の死から山一抗争の直接的原因である「一和会」の分裂まで、出来事を分かりやすくまとめてみます。

・1981年(昭和56年)7月:3代目組長「田岡一雄」死亡(病死)

・1982年(昭和57年)2月:4代目に内定していた「山本健一」死亡(病死)

・1982年(昭和57年)6月:山本広(山広組々長)が組長代行に就任

・1982年(昭和57年)6月:竹中正久(竹中組々長)が若頭に就任

・1982年(昭和57年)8月:竹中正久が逮捕される

・1982年(昭和57年)9月:(定例会に於いて)組長代行「山本広」が四代目組長に立候補

(竹中支持派が猛反発し、田岡文子の説得で、山本は四代目襲名を延期)

・1983年(昭和58年)6月:竹中正久が出所

・1984年(昭和59年)6月:(直系組長会に於いて)田岡文子が「竹中正久」を四代目に指名。竹中が四代目組長就任の挨拶をする。

・1984年(昭和59年)6月:竹中の四代目組長就任に反発するグループは山口組を脱退し「一和会」を結成

このように、巨大組織「山口組」の四代目組長が決まる過程で、亡き田岡一雄の妻「田岡文子」の存在が、大きな影響力を及ぼしたことは間違いありません。

山一抗争にまで発展する四代目誕生の内幕

山口組4代目に竹中組長が選ばれた秘密とは

出典: https://ameblo.jp

1984年(昭和59年)6月に開催された直系組長会に田岡文子が出席して「竹中正久」を四代目に指名したことで、それまで3年ほど空席のままだった「山口組」の四代目組長に「竹中正久」が就任することに決まりました。

この際、田岡文子は、亡き夫である田岡組長の遺志は「四代目組長には山本健一、若頭には竹中正久」であり、山本健一が亡くなったことで、四代目組長には「竹中正久」を指名した、とのことでした。

しかし、この話には若干、疑問が生じています。

じつは、「山口組」の四代目組長に就任した「竹中正久」自身が、次のように述べているんです。

「姐さんから、ヤマヒロに協力したって欲しいいう話があった…」

※姐さんとは田岡文子のことで、ヤマヒロとは山本広のこと

つまり、田岡文子は(当初は)組長代行だった「山本広」を四代目組長にと考えていたらしいんです。

この後、どういう経緯で田岡文子の考えが180度変化して、竹中正久を四代目組長にと考えるようになったのかは不明です。

ただ、竹中正久の言葉によれば、山本広は「若い者の面倒をもっと見たらなあかん…」という人間的側面があったようで、もしかしたら、山本広はあまり組員からの人望がなかったのかも知れません。

史上最悪のヤクザ抗争「山一抗争」勃発

「山一抗争」勃発までの経緯

「山口組」の直系組長会に出席した田岡文子が「竹中正久」を四代目に指名し、これを受け、竹中が四代目組長就任の挨拶をしたことで「山本広」を推すグループは山口組を脱退して「一和会」を結成し、「山一抗争」の勃発へと突き進んでいきます。

この間の出来事をまとめました。

・1984年(昭和59年)6月:(直系組長会に於いて)田岡文子が「竹中正久」を四代目に指名。竹中が四代目組長就任の挨拶をする。

・1984年(昭和59年)6月:竹中の四代目組長就任に反発するグループは山口組を脱退し「一和会」を結成

(一和会の発足当初は、「一和会」が約6000人の規模だったのに対し、「山口組」が約4000人と、一和会の方が数的には優勢でした。)

・1984年(昭和59年)7月:山口組四代目「襲名式」が挙行される

・1984年(昭和59年)8月:和歌山県串本町の賭場で、山口組系組長が一和会系組員を刺殺。

・1984年(昭和59年)8月:四代目山口組から「義絶状」が全国の友誼団体に送付

・1985年(昭和60年)1月:一和会が竹中正久ら三人を銃撃。竹中は病院に搬送され翌日死亡。

四代目組長「竹中正久」が一和会の襲撃で死亡したことで、この後、「山一抗争」はドロ沼化していくことになります。

史上最悪のヤクザ抗争「山一抗争」の終結

「山一抗争」終結までの経緯

抗争の過程で、当初優勢だった一和会からは脱落者が相次ぎ立場は逆転していきます。

これは、山口組の攻勢が凄まじかったこともありますが、昔、竹中正久が指摘した「(山本広は)若い者の面倒をもっと見たらなあかん…」という人間的側面が露呈し山本広の人望が無くなった結果かも知れません。

・1989年(昭和64年)3月:一和会の山本広は稲川会の稲川裕紘に付き添われ、山口組本家を訪問。山本は引退と一和会解散を告げ、竹中の殺害を謝罪。

この後、一和会は消滅し、「山一抗争」は終結しました。

「山一抗争」と山口組六代目組長「司忍」

出典: http://yakuza893.blog.jp

司忍は「山一抗争」で知られる存在になった

出典: https://www.nippon.com

出典: http://www.asahi.com

左:6代目山口組の司忍組長
右:神戸山口組の井上邦雄組長

最近の「山口組分裂」騒動の中で、一般人の中にも顔が売れた山口組六代目組長「司忍」ですが、「司忍」が全国的に知られる存在になったのが「山一抗争」です。

「山一抗争」が勃発した時代、「司忍」は名古屋の弘田組で、副組長や若頭として抗争の陣頭に立っていたのが司忍でした。

司忍の親分の弘田組組長「弘田武志」は、4代目に内定していた山本健一と仲がよく、4代目のもとで山口組に参加予定でした。

ところが事態は急変し、「山一抗争」が始まります。

そんな中、司忍の親分弘田組組長「弘田武志」は、山本広支持を表明します。

当然、司忍も「弘田武志」と行動を共にして、一和会系所属の司忍となる予定でした。

しかし、ここで司忍は、親分にあたる「弘田武志」を懸命に説得。「弘田武志」を翻意させていまいます。

結果、「弘田武志」は組を解散しヤクザを引退しました。

(弘田としては弘田組の功労者である司忍の意見を無視することはできなかったのでしょう。)

そして、司忍は四代目山口組の盃を受け、現在に至ります。

もし司忍が、親分の弘田組組長「弘田武志」の言うまま一和会行きに同意していたら山口組六代目組長「司忍」は誕生していなかったハズです。

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「山一抗争」とダンプ特攻

「山一抗争」でも登場したダンプ特攻の今

出典: https://www.kobe-np.co.jp

「山一抗争」でのダンプ特攻

一和会会長宅(右)を襲撃するダンプ特攻の様子

1984年~1989年に起こった史上最悪のヤクザ抗争「山一抗争」の中では、ダンプ特攻での襲撃も行われました。

具体的には、1985年5月のダンプ特攻で、ダンプ特攻で襲撃された場所は、一和会の会長宅でした。

神戸市東灘区にあった一和会々長「山本広」邸にダンプ特攻を仕掛けたのは、山口組系後藤組と山口組系美尾組の組員の3名で、

ダンプ特攻の結果、県警機動隊員と撃ちあいにまで発展しました。

じつは、ダンプ特攻は今その数が増えています。

「山一抗争」で有名になったダンプ特攻が今増えている?

最近の「山口組分裂」騒動の中で、ダンプ特攻が激増しています。

その理由は、拳銃発射よりダンプ特攻の方が、長期懲役のリスクが低いからです。

最近の若い組員は、拳銃を発射しただけで10年も刑務所に行くのは馬鹿げていると思っているんです。(頭いいですね。)

ダンプ特攻を考えた男…の動画はコチラ↓

まとめ

ここまで史上最悪のヤクザ抗争と言われる「山一抗争」について見てきましたが、山口組最大の功労者「田岡」の死から始まる抗争ということからも、「田岡」という人物の大きさを感じざるをえません。

逆に言えば、「田岡」ほどの人物が、なぜもっときっちり跡目問題が起きないような準備をしなかったのか不思議です。

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