『山一抗争』30年前の山口組分裂事件の全貌と結末

最近、山口組が3つに分裂したことは記憶に新しいですが、30年前にも山口組分裂事件は起こっていました。それが山一抗争で山口組と一和会の間に起こった暴力団分裂事件です。この山口組と一和会の間に起こった山一抗争は、史上最悪の暴力団抗争として知られています。

『山一抗争』30年前の山口組分裂事件の全貌と結末のイメージ

目次

  1. 史上最悪の暴力団抗争「山一抗争」とは
  2. 「山一抗争」勃発の原因とは
  3. 山一抗争の主役「山口組」の中興の祖
  4. 山一抗争の主役「山口組」が急成長した理由
  5. 山口組三代目組長「田岡一雄」のエピソード
  6. 山一抗争で山口組と戦った一和会とは
  7. 山一抗争の当初は数で優勢だった一和会
  8. 山口組と一和会の「山一抗争」での影の主役とは
  9. 山口組の中興の祖「田岡一雄」の死~山一抗争まで
  10. 史上最悪の暴力団抗争「山一抗争」の結末
  11. まとめ

史上最悪の暴力団抗争「山一抗争」とは

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山口組と一和会の間の暴力団抗争

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「山一抗争」は、1984年(昭和59年)~1989年(平成元年)にかけて繰り返された暴力団同士の抗争事件のことで、史上最悪の暴力団抗争として有名です。

抗争事件を起こした暴力団は、「山口組」(兵庫県神戸市)と「一和会」(兵庫県神戸市)で、「山一抗争」勃発当初のそれぞれの規模は、山口組側が5000人、一和会側が6000人と、構成員の数で見れば、一和会の方が優勢な状況での抗争スタートでした。

しかし、一和会側からは山一抗争の勃発の後、脱退者が相次いで徐々に構成員数の数を減らしていってしまいます。

「山一抗争」の途中には、1985年(昭和60年)8月の「ユニバーシアード休戦」に合意したりもしながら、両組織の抗争は続き、大小含めて317回の抗争事件と、死者25人、負傷者70人、多くの逮捕者を出す事態にまで発展してしまいます。

結局、「山一抗争」は、山口組側が一和会を解散(消滅)させることで決着をみて、抗争は終了しました。

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山口組総本部

「山一抗争」勃発の原因とは

山口組と一和会が分裂した四代目組長を巡る内紛

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四代目を巡って争った「山本広」組長代行(右)と「竹中正久」若頭(左)

「山一抗争」の直接的キッカケとなる事件は、1985年(昭和60年)1月に発生した、一和会による山口組四代目組長「竹中正久」の殺害事件などいくつか考えることができますが、一連の山一抗争の火種となったのは、山口組三代目組長「田岡一雄」の死でした。

※ちなみに、田岡組長の死因は病死(心不全)でした。

この時点で、田岡組長の後を継ぐ山口組四代目組長には、当時若頭だった「山本健一」が就任することで内定していました。

しかし、田岡組長の死から1年足らずのうちに山口組四代目組長を襲名する予定だった「山本健一」も病気(肝臓疾患)で亡くなってしまいます。

僅か1年足らずのうちに、三代目組長「田岡一雄」と、山口組四代目組長を襲名する予定だった「山本健一」という二人のトップを失ったことで、山口組の内部には混乱が生じ、四代目組長を巡る内紛の過程で山口組と一和会が分裂し、「山一抗争」へと発展していってしまいます。

逆に言えば、それだけ、山口組三代目組長「田岡一雄」の存在が大きかったと言うことができるのかも知れませんが…。

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山口組四代目組長に内定していた「山本健一」山健組組長

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山一抗争の主役「山口組」の中興の祖

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「田岡一雄」

「山口組」急成長の功労者「田岡一雄」とは

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山口組という名称を耳にして、暴力団の名前だと理解できない日本人は殆どいないと思われるくらい、
日本の中では有名な存在となっているのが山口組という存在です。

また、田岡組長という名前も広く知られており、日本人の中で一度は聞いたことがあるという人が多いのではないかと思います。

じつは、「山口組」を創設したのは山口春吉という人物です。
そして、山口春吉の息子が跡を継ぎ二代目組長を襲名しました。

田岡組長は、この後山口組の組長に就任しました。つまり田岡組長は、山口組の三代目組長にあたります。

初代~三代までの「山口組」組長をまとめると、次のようになります。

・初代組長:山口春吉(1915年~1925年)
・2代組長:山口登 (1925年~1942年)※初代組長山口春吉の実子
・3代組長:田岡一雄(1946年~1981年)

ちなみに、田岡組長が3代目組長の座に就いた頃の山口組は、構成員が三十数名ほどの弱小団体でした。

しかし、その後山口組は急速な発展を遂げて、420余りの団体を束ねる大規模な暴力団へ変身していきました。また、最盛期には、山口組を構成する組員の数は10000人を超える数まで膨れあがっていました。

田岡一雄は、まさに山口組の歴史の中で、中興の祖ともいえる人物だったんです。

しかし、一方で、山口組のその後の発展の基礎となった芸能興行への道筋をつけたのは、二代目の山口登組長でした。
また、山口登組長は、吉本興業との提携を進めるなど、なかなかの実業家タイプだったようです。

三代目の田岡組長が組織を急成長させて、山口組の中興の祖となることができたのは、二代目の山口登組長があらかじめ道筋作りをしてくれていたからかも知れません。

織田信長に対する豊臣秀吉のような関係が、山口組二代目の山口登組長と三代目の田岡組長の間に成立していたのかも知れませんね。

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山口組の代紋「山菱」

山一抗争の主役「山口組」が急成長した理由

「山口組」を急成長させた「田岡一雄」の手腕

「田岡一雄」が山口組三代目組長を襲名した時代、日本は戦後の復興期の真っ最中でした。

そんな社会の変革期の中に組長に就任した田岡組長は、「港湾荷役」や「芸能興行」などの合法ビジネスに注目し、この分野で一定の地位を獲得することで、山口組に合法ビジネスからの収入という安定した収入源を獲得させることに成功します。

この後、山口組は、暴力団本来の非合法ビジネスに加えて、合法ビジネスという安定した収入源を持つことで、「田岡一雄」は、山口組を近代的な全国規模の暴力団にまで成長させていきました。

山口組三代目組長「田岡一雄」のエピソード

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ここでは、今に語り続けられる山口組三代目組長「田岡一雄」のエピソード話を紹介します。

・田岡組長の体には「入れ墨」がありませんでした。その理由は、(若い頃は)お金が無かったからだそうです。また、お金に不自由しなくなった頃には入れ墨への興味がなくなったとのことです。

・所属組員に正業(合法の収入源)を持つことを奨励し、山口組の発展に貢献した。

・神戸水上警察署の1日署長をした経験がある。

・英国製の高級スーツを着て、毎月3回理髪店に通っていた。

・田岡一雄と美空ひばりの関係は、興行主と所属スターというものを超越していて、周囲からは「連合軍」と呼ばれていた。

・税務署の発表によると、田岡一雄の遺産額は1億5340万円だった。

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山一抗争で山口組と戦った一和会とは

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一和会は「いちわかい」ではなく「かずわかい」だった?

「一和会」の読み方は、「いちわかい」です。

しかし、「一和会」の発足当初は、「かずわかい」でした。

読み方が変わった理由は、新聞やテレビなどのマスコミのニュースで「いちわかい」と誤って報道したことがその理由とされています。

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一和会の代紋

山一抗争の当初は数で優勢だった一和会

結成当初、山口組を凌駕した一和会

昭和59年の6月に「一和会」が結成されました。

これは、「山口組」の4代目に「竹中正久」が就任したことに反発する、「山本広」を推す一派が山口組を脱退し分裂したことが「一和会」結成の直接的原因でした。

ちなみに、山一抗争当初は、山口組側が5000人に対し一和会側が6000人と、構成員の数で見れば、一和会の方が優勢な状況での抗争スタートでした。

山口組と一和会の「山一抗争」での影の主役とは

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「山一抗争」に影響力を及ぼした田岡の妻:フミ子

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じつは山口組3代目組長の妻である田岡フミ子が、「山一抗争」の影の主役として力を発揮した事実があります。

田岡フミ子が最初に影響力を発揮したのが、1982年(昭和57年)9月のことで、山口組の組長代行だった山本広(ヤマヒロ)が、四代目に立候補した際に、フミ子が山本広(ヤマヒロ)を説得して、四代目への就任を延期させ、組内部の混乱を収拾させました。

その後、田岡フミ子は、竹中正久を次の組長にと考えるようになりますが、当初は山本広(ヤマヒロ)組長代行を次の組長に考えていた時期もあるようで、竹中正久に山本広(ヤマヒロ)に協力してやってくれと依頼した事実もあるようです。

↓下の動画では、田岡フミ子が竹中正久を次の組長に決めた理由を述べています。

山口組の中興の祖「田岡一雄」の死~山一抗争まで

山口組と一和会の「山一抗争」が勃発するまでの経緯

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山一抗争の火種となった、三代目組長「田岡一雄」の死から、山一抗争の直接的原因となった「一和会」の分裂を経て、山口組の四代目竹中組長の襲撃まで、出来事を時系列的にまとめてみます。

・1981年7月:山口組の三代目田岡組長が死亡

・1982年2月:四代目に決定していた山本健一若頭が死亡

・1982年6月:山本広若頭補佐が組長代行に就任、少し遅れて竹中正久若頭補佐が若頭に就任

・1982年9月:山本広組長代行が四代目に立候補(竹中は逮捕勾留中で不在のため竹中支持派が猛反発し、田岡フミ子の説得で山本は四代目就任を延期)

・1984年6月:田岡フミ子が組長会に出席し竹中若頭を山口組組長に指名。これを受け、竹中が四代目組長就任の挨拶をする。

・1984年6月:山本広を推す一派が山口組を脱退し「一和会」を結成

・1984年8月:山口組を脱退した一派に対し義絶状が四代目山口組から全国の友誼団体に送付される

・1985年1月:一和会側のヒットマンが四代目組長竹中正久を銃撃。竹中は翌日病院で死亡。(四代目組長竹中正久の行動は、完全に一和会の山本広や山広組の後藤栄治らにキャッチされていました。)

この後は、山口組の四代目竹中組長が一和会の襲撃で死亡したことで「山一抗争」はドロ沼化していき、抗争の過程では映画に出てくるようなダンプ特攻なども登場しました。

ちなみに、山口組の四代目竹中組長が襲撃された当日は、京都の病院に入院中だった田岡フミ子を見舞っての帰りだったそうです。

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史上最悪の暴力団抗争「山一抗争」の結末

山口組分裂事件の結末のゆくえ

「山一抗争」の勃発当初の山口組と一和会のそれぞれの規模は、山口組側が5000人、一和会側が6000人と、構成員の数で見れば、一和会の方が優勢な状況での抗争スタートでした。

しかし、一和会側からは山一抗争の勃発の後、脱退者が相次いで徐々に構成員数の数を減らしていってしまい、形勢は逆転していきます。

これは、山口組側の攻勢が苛烈だったこともその理由ですが、一和会のトップである山本広(ヤマヒロ)の資質に問題があったことも関係していると思われます。

山本広(ヤマヒロ)組長代行の人間性については、いろいろ話が残っています。

例えば、山口組幹部の間では、山本広(ヤマヒロ)組長代行のことを「あさっての広ちゃん」と呼んでいました。

これは山口組に問題が起こると、山本広が口ぐせのように「2~3日様子を見よう」と言っていたことから付いたアダ名でした。

つまり、山本広(ヤマヒロ)組長代行は経済ヤクザとしては優秀だったのかも知れませんが、田岡組長や武闘派の他の幹部から見ると、ケジメも付けられないヤクザとの見方が定着していたことを表しています。

さらに、竹中が四代目組長を襲名する以前に、田岡組長は「ヤマヒロは、もっと若い者の面倒を見なきゃあかんぞ…」と指摘し、山本広の極道の組長としての資質に難色を示したことがありました。

もしかしたら、山本広は組員の間に人望が無く、このことが「山一抗争」での形勢逆転を招いたのかも知れません。

結局、1989年の3月に一和会の山本広は、稲川会の稲川裕紘の仲立ちで山口組本家を訪問し、極道からの引退と一和会解散を報告し、また竹中の殺害を侘びました。

これをもって、一和会は極道の世界から消滅し、「山一抗争」は終結することになりました。

まとめ

「山一抗争」については、山口組の功労者であり、中興の祖とも言える「田岡組長」の死が大きな原因となっています。

「田岡組長」の功績を考えるにつけ、どうして「田岡組長」ほどの人物が、跡目問題が起きないような対策をとらなかったのか不思議でなりません。

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